どんな作業でもいえることですが、単調で、リズムが一定、それがいつまでも続くようだと、どうしてもすぐに飽きてしまいます。ルーティンワークという表現をされますが、飽きられると、そのものから心が離れてしまい、二度とは戻ってくれることはないでしょう。

それは文章に関しても同じことがいえます。単調で、同じようなことがダラダラと、とめどなく続いていると、読んでいても、すぐに飽きてしまうでしょう。飽きる文章というのは、自分自身がその内容に興味がないというだけでなく、実は興味があったとしても、単調でリズムがないと、読んでいてつまらなくなってしまうのです。

では、飽きられずに、最後まで関心を持って読んでもらえる文章にするにはどうすれば良いのでしょうか。それは、単調だから飽きるのであって、裏を返せば、リズムを変えることで、飽きられることはなくなるのです。そのためには、特に文章表現に技術が必要と言うわけではありません。ちょっとした工夫で飽きられない文章になるのです。

例えば、各文の語尾が一定になっていると、読み手は飽きを感じてしまいます。人間は一本調子になってしまうとすぐに飽きてしまいますが、何か少しずつ変化があると、リズミカルに興味を持つことができるのです。語尾を常に「である」で終わらせていると、読み手のリズムが変わらずに、やがてあくびが出て、読むのを止めてしまうでしょう。そこで、語尾を「である」だけでなく、「だ」や体言止めなどを上手く織り交ぜることで、単調なリズムを打破することが出来ます。

文末表現としては、先ほどチラッと触れた体言止めも有効な手法である。体言とはいわゆる名詞や代名詞を指します。体言止めとは体言で文を終えることを言います。例えば「雨上がりに感じる梅雨の蒸し暑さ。」とか、「週末にビールを飲む瞬間の至福のひととき。」などといったものです。

体言止めを有効に使うことが出来れば、読み手に余韻を残すことが出来ます。その一方で、体言止めばかりを使用していると、どこか舌足らずな文章に感じられるでしょう。何だかぞんざいな雰囲気も出てくることもあります。体言止めは余韻を残す程度に散りばめるのが一番であり、時おり、読み手のリズムを変えるのには効果があります。

最も忘れてはならないのは、文章とは相手に自分の主張を伝えることにあります。文末ばかりに気を取られてしまい、同じような表現はしないように…としていると、どうしても内容が薄くなってしまいがちです。文末表現には配慮する必要がありますが、伝えなければならない部分では断定的な表現にすることも大切です。

よく日本人の文章にあるのが、否定表現や受身、「もしかしたらそうかも…」程度の中途半端な表現です。しかし、これでは文章として自分の主張がなされていません。特に結論に関しては、きちんと断定する…つまり、「である。」とか「だ。」と言い切ることで、ここが結論であり、強い主張を表現することも出来るのです。

このように、文末表現をちょっと意識することで、文章は劇的に変わります。工夫すれば、読み手に飽きさせず、それでいて余韻も感じさせながら、自分自身の主張も伝えることができるようになり、文章としての意味をもてるのです。